プラネタリウム


 今夜は、今年一番の冷え込み、らしい。
 ……そんなこと言われたって、ここ、ケテルブルクの冬はいつだって寒いから、違いなんてわからないけれど。
 とりあえずうるさい家庭教師も帰ったことだし、さっさと寝てしまおう。そう思って毛布にくるまってみたけれど、ちっとも体が温まらない。そのあまりの寒さに耐え切れず、さっき消えてしまった暖炉に火を入れようとしたら、奥の方からごそごそと、人が近づいてくる気配がした。普通に考えてそんなところから音がするなんておかしいけど細かいことは気にしない。とりあえずまだ火をつけてなくてよかったと思うのと同時に、誰が来るのだろうと、少し心が弾む。
 ケテルブルクに軟禁されてから一体どれくらい経ったのだろうか。飾りとしてしか存在していないカレンダーを見たところで、正確な日付もわかりはしない。というか、意識しなくなってから、さっぱり分からなくなった。毎日代わり映えのない部屋の中で過ごす一日は味気なく、また家庭教師とメイドくらいとしか話をする相手のいないこの生活が、全くもって退屈だった……ジェイドが、この屋敷に忍び込む前までは。
 俺がこっそりとこの屋敷から抜け出せるように抜け道を作ってくれたジェイドとサフィールは、他人と関わることのなかった、いやできなかった俺に初めて出来た友達だ。そしてこの抜け穴を知っているのも、俺達三人だけ。ただ実際にこの道を使うのは主に俺だけだったから、一体誰が来るんだろう――とは言ってもふたりのうちのどちらかしかいないが――、と暖炉の前で待ち構えてみる。普通に考えて、なぜか一方的に毛嫌いされているサフィールが来るとは思えないが、絶対にジェイドが来たという確信もない。とにかく、向こうから来てくれたという事実だけで、なんとなく嬉しくなる。
 最初に白い手が暖炉の底を掴んだのが見えた。次いで茶色に近い金髪がひょっこりと現れる。どうやらジェイドが来たらしい。よじ登るのに少し苦戦しているジェイドの手をぐいと引っ張って、部屋の中へと引き込んでやる。
「珍しいな、こんな時間に。しかもお前からこっちに来るなんて」
 突然の友の訪問を俺は満面の笑みで出迎える。相手が不愉快そうな顔をしているのも相変わらずだ。
「ちょっと、渡したいものがあって」
 引き上げたことに対するお礼は無しに、パンパンとコートについていた雪や土を払うと、背負っていた荷物の中から黒い物体を俺に差し出した。
「あげるよ。暇つぶしにはなると思う」
「……なんだ、これ」
 とりあえず手にしてはみたものの、渡されたそれは何とも言えない形をしていた。ボールみたいな球体に小さな箱がくっついているような、全て真っ黒な謎の物体。振ってみてもカシャカシャとわずかに音がするのみ。一体何なのか、見当もつかない。
「どうせ何にもしないでここにいたって暇なだけだろうと思って。とりあえず、それを床に置いて、部屋の音素灯、消してくれる?」
「なんで?」
 全くわけがわからず聞き返すけどジェイドはお構いなしというかいつも通りのマイペースさで、早くしろ、の一点張り。仕方なくさっき貰った物をそっと床に置くと、音素灯を消すために部屋の隅のスイッチを切にする。

 と。

 部屋一面に、小さな光が、いくつもいくつも、所狭しと広がった。
「うわ、あ……」
 感嘆のため息が出た。というより、他に言葉がでなかった。さっきまであった暖炉も本棚もベッドも肖像画も、何もかも消えた真っ暗な空間に浮かび上がる、たくさんの小さな光の粒。目が慣れてくるとその光の粒は密集しているものから散らばっているものまで、まるで、ひとつの絵のように、たくさん、たくさんあるのがはっきりとわかる。
「なあジェイド、何だよ、これ! すっげーな!!」
 わずかな光りの屈折を頼りにしてジェイドの方を向き、声をかける心なしかジェイドの口の端が上がったように思えた。はっきりとは見えないから、気のせいかもしれないけれど。それはサフィールへのいたずらが成功したときのような、笑い方で。
「プラネタリウム、って言うらしい。この前その仕組みを本で見て、ずいぶんと簡単にだけど暇つぶしに作ってみたんだ。この点は全て、空にある星を表しているそうだ」
 へえ、と説明を聞きながらただただ驚嘆した。こんなに小さな光が全て、空に存在しているなんて考えられない。
「綺麗だな……」
「でも、これは、僕が作った偽物だ。本物はもっと……」
「それでも、綺麗には変わらないさ。だって俺、満天の星空なんて、見たことないし。グランコクマは夜でも明るいから星なんてろくに見えないし、こっちに来てからはほら、自由に外に出られもしないだろ?」
「……ごめん」
 何気なく言った反論に謝られ、少し、驚いた。そういえば、俺は軟禁されていて外に出るのもままならないけど、こいつはいつでも、外に出られるし星空だって眺められるんだった。自分の常識は万人の常識ではないんだなって、なんとなく気付いた。……それ以外にもちろん、ジェイドが素直に謝ったから驚いた、というのもあるけれど。
「いいっていいって、ほんとのことだ。深く考える必要ないさ。――ところで、あの光、いや星? は何て言うんだ?」
 いつものジェイドじゃないみたいで調子が狂いそうで、無理矢理話を変えようと、自分のほぼ真上に位置する、他の光より一回り大きな光を指差す。
「北極星」
 俺がどれを指しているのかわかるのに時間がかかったらしく、ややあって、ジェイドが答える。正直、知っているとは思わなかった。適当に指差しただけだったし。それでも、だからこそ当たり前のように答えてくれるのが嬉しくて楽しくて、適当な光を指差しては、片っ端から質問していった。
「じゃああれは?」
「ペルセウス」
「あれは?」
「……もういいだろ。自分で調べろよ、それくらい」
 いい加減、質問攻めにうんざりしたのか、ため息交じりにジェイドが答える。
「調べるよりも、お前に聞いた方が早い。だって、現に知ってるだろ?」
 な、と続ける前にパコ、と硬い本で軽く叩かれる。
「痛っ……」
「ほら、星座の本だよ。これで少しは勉強しろ」
 叩かれた頭部を撫でながら、差し出された本を受け取る。分厚くて重いその本は、部屋の空気よりも少しひんやりとした。ジェイドが持ってきた、このプラネタリウムとかいう物と一緒に持ってきたんだろう。どこまでも気が回る奴だ。
「ケチな奴め。……それじゃあ、最後にもう一つだけ、聞いていいか?」
「ひとつだけ、だからな」
 本当にうんざりした声色で返事をされる。それも慣れているから別に気にしないが。
「あの星は、何て言うんだ?」
 自分のほぼ真正面に位置する、ひとつだけ、回りの星から少し離れて位置する、他の光よりも一回りほど小さい光を指差す。
「…」
「……ジェイド?」
「……知らない」
「……へ?」
「……だから知らない。多分作るときに、間違えて開けたんだと思う」
 思わず、ジェイドの顔をまじまじと覗き込んでしまった。小さな光の粒が映り込んでいる顔を。もちろんそれに気づいたジェイドはむっとした顔でこちらをにらめつけてくるけれど。
 ……その答えは、意外だった。ジェイドはなんでも知っていて、間違えるなんてこと、ないと思っていた。ネビリム先生の塾でだって一人でなんか難しいことしているし、博識だし、譜術も使えるし、レプリカも作っているし。
 だから、他の、普通の子供みたいに間違えた、というのが何となく嬉しかった。こいつも、自分と同じなんだって。勝手だけど、そんな些細なことで、新たな一面を知れた気分になる。
「じゃあ、俺が名前つけてもいいか、その星に」
「別にいいんじゃない? ピオニーにあげたものだし」
「そうだな……。うん、じゃあ、“ジェイド”」
「……は?」
 何を言っているんだと、即座に聞き返される。薄暗闇に慣れた目はジェイドの顔がこちらを向いたのを捉えた。いぶかしむ、というよりは非難しているようなその目線に負けじと、言葉を続ける。
「ん? これはお前が俺に作ってくれたものなんだろ? だから、その記念に。いいじゃないか、自分の名前がついた星だぞ?」
 に、と笑って見せると、何を思ったのか、ジェイドはすたすたとこの暗闇をものともせずに部屋の隅へ行き、音素灯を点けた。一瞬にして星空は消え失せ、部屋は元のように眩しく明るく照らされる。暗闇に慣れてしまった目にはひどく眩しく感じられて、目を開けていられずに思わず細めて、今度はこの眩しさに慣らそうと努力する。
「くだらない話してるくらいなら僕は帰るよ。もう用は済んだし。今日はまだやることがあるし。じゃあ、また明日、塾で」
 この眩しさをどうとも思わないのか、さっさと帰ろうと暖炉に潜り込むジェイド。薄目でそれを見、引き止めようとしてちょっと待て、と言う前にジェイドはするりと抜け道の奥に消えてしまった。

 抜け道を通っていったジェイドの気配が消え、完全にひとりになった部屋の音素灯をまた、消した。途端に、細かい星々が一斉に光り出す。暇つぶし、と言いつつもしっかりと作り込んであるプラネタリウムを見て、これだけの物を作るのに多少なりとも苦心していたであろうジェイドが思い浮かび、無意識に顔が緩むのを抑えられなかった。
 ……確か、この星が、さっき俺が名付けた星のはず。近づいて触ってみようと伸ばした手は冷たい壁に触れ、光は俺の手に映った。
 作られたもの。
 確かに、そうだなと苦笑する。それにしても実際には存在しないのなら、自分の名前をつけられたくらいでそんなに恥ずかしがらなくてもいいんじゃないのか、と思った。ジェイドが素直じゃないのはいつものことだけど、意外とこういうことに弱いのかなと思い、また少し、なんとなく、嬉しくなった。