やさしい、かお


「……でね、そのときのルークの慌てっぷりったら、もうほんっと見ていられないくらいだったんですよぅ」
「そうですか、それを見られなかったのは残念ですねえ」
「ほんとですよ。大佐もいればよかったのに」
 夕食を済ませた後のわずかなひととき。なんとなくすぐに部屋に戻りたくなくてホテルの中をうろうろしていたところで大佐に声をかけられて、それから、なんとなく話し続けている。
 初めて大佐と会ったときは、こんなふうに一緒に話すことも、ここまで長く旅を続けることになるとも、考え付かなかった。だって最初は、ただ、お互いの目的のために協力関係を結んでいただけだったし、さらにあくまで“お金持ち”だったからお近づきになろうとしていただけだったし。本当に、人生って何が起こるかわからない。
 ……そう、本当、に。
 私にとって一番大切な、大好きな人を、たとえパパとママが人質に取られていたからって、モースに脅されていたからって、売るような真似してしまう、なんて。
 ……本当に、人生って。
 口から出ていく言葉とは全く別のことがぐるぐる浮かんで思わず、はあ、とため息をつく。
「……アニス? どうかしましたか?」
「あ、いいえ、なんでもないです。ちょっと一瞬、考え事しちゃっただけですから」
 敏い大佐の突っ込みに、えへへ、といつもみたいに笑う私。
 ……いけないいけない。『アニスちゃん』はいつも笑顔でいなくちゃいけないんだった。いつもの作り笑いで。
 作り笑いなのは、本当の笑顔なんて、とっくの昔に忘れてしまったから。いつまでも純粋でいられたら、忘れることもなかったかもしれないけれど。でもそんなこと、今の私には、おそらく昔の私にだってどうすることもできない。
 私がずっと被っていた、被らなければいけなかった仮面は、どんなに取ろうと努力したって取り外せなくなってしまったのだから。
「あ、それでですね、その話の続きなんですけど、」
「辛くありませんか?」
「え?」
 さっきまでいつも通りに話をしていた大佐がいきなり、私の話に割り込んできたと思ったら、そこから出たのは今までの話と全く脈絡のない言葉だった。
 急に問い掛けられて、思わず私は疑問符を語尾につけて右隣でコーヒーを優雅に飲んでいる大佐に聞き返してしまった。そんな変な言葉を発したにもかかわらず、行動がともなっていないのはいつものこと、だけど。
「大佐ってば、何言ってるんですかぁ? アニスちゃんは元気そのもの、ですよ?」
 こころを読まれたかと思った。私が考えていたこと全て、分かってしまっているのではないかって。
 そんな自分のこころを誤魔化すように、さっきまでと同じ口調、いつもと同じ笑顔をよりいっそう意識して、問い掛けに答える。でも大佐はじいっとこちらを見たまま、コーヒーも飲み続けたまま。
「……そんなに見ないでくださいよ。いくら大佐でも、ずっと見られたら恥ずかしいですぅ」
 言いながら大佐の視線から逃げるように、喋ることに夢中で口をつけていなかった自分のミルクティーのカップに手を伸ばそうと、それに目を向ける。
 大佐の眼鏡の奥で光る、血のように紅い眼に見つめられて、その眼に何もかも見透かされているようで、なんだか恐くなったから。
「無理しないで、辛いとき、泣きたいときは泣いていいんですよ。あなたは泣けるんですから」
 一口、動揺するこころを押さえつけながらミルクティーを飲もうとした瞬間。
 隠し切れずにカップを持つ指先が細かに震えているのを見て取ったのか、大佐はやさしい声で私に言葉をかけた。
 いつもみたいな軽口をたたくときのような声とも、ルークやナタリアに示唆を与えるときのような声とも全く違う、本当にやさしい、声で。
「や、やだなあ大佐、私のどこが無理してるって――」
 行動では誤魔化しきれないならせめて、と思って顔を上げて目に映ったのは、大佐の、やさしい、かお。


  ――泣いていいんですよアニス。無理をするのはあなたらしくありません――


 一瞬、イオン様の言葉がフラッシュバックした。
 イオン様がその言葉をくれたとき、やっぱり私は、他愛もない話でいろんなもやもやを隠し通そうとしていた。
 絶対に知られたくない。そう、思っていたからこそだったけれど。
 でもそんなこと、全てお見通しで。
 ……そのときのイオン様も確か、今の大佐みたいな、やさしいかおをしていた。
 いつも微笑んでいて、お姫様みたいにしょっちゅう誘拐されていて、実は本物の導師イオンのレプリカの一人で、でも私にとってはひとりだけのイオン様の、一番やさしい、かお。
 そんなことを思い出してしまって、イオン様と過ごしてきた想い出とか後悔とか痛みとかいろんなことが急に駆け巡り、ふいに視界がじわりと霞んできた。大佐の顔が、輪郭がぼやけてくる。徐々に涙が溜まってきて、ぐしゃぐしゃになりそうな顔を見られたくなくて目頭を慌ててごしごしと服で拭っていると、ぽん、と軽く頭の上に大佐の手が置かれた。反射的にびく、と体が硬直する。
「人は、泣くことで溜め込んだ物を吐き出す生き物らしいですから、我慢しないで泣いた方がいいんですよ」
 頭を優しく撫でる大佐の手が温かくて、大きくて。今更だけどイオン様やルークのような少年の手じゃなくて大人の男の人の手なんだなあって、思ってまた、目頭に溜まる涙。
 こんなはずじゃなかったのに。うっかり、それもまた、人前で泣きそうになるなんて。
 なんだか最近、私、涙腺壊れちゃったみたい。こんなこと、旅が始まるまでなかったのに。
「……それがホントなら、大佐も泣いたりするんですか?」
「ええそりゃあもう、ボロボロと。何しろ色んなところでこき使われていますからねえ」
 思い通りになるのが悔しくてちょっと涙交じりの声で尋ねてみる。俯いているから顔の表情までは読み取れなかったけど、多分さっきの、やさしい顔のまま大佐は答えた。声が優しいままだったからきっと、そうだと思う。
 その声で紡がれる全くの本心じゃないであろう答えに、くす、と嗚咽をこらえながら少し唇だけで笑って、そのまま大佐の胸に顔をうずめた。予想でもしていたのか特に拒むような様子はなく、優しい手は頭を撫で続けてくれている。
「少し、お借りします」
「ええ、どうぞ」
 少しくぐもった声で、一応聞いてみた。やっぱり予想していたみたいで、あっさりと返される言葉。こんな余裕たっぷりに言われるとなんだか悔しい。けれど、あたたかい。
「……絶対に顔、見ないでくださいね」
「わかってます」
「あと、このことは、誰にも言わないでくださいね」
「もちろんですよ」
 だから早くすっきりしてしまいなさい、そう言うかのように右手も伸びてきて、私の背中を優しく上下する。その手の温かさがまた、じんわりと私にさらに涙をもたらした。
 そして私が小さく鳴咽を漏らしている間中ずっと、その手は私を撫でてくれていた。あやすように、許すように。