むせ返る花の匂いで目を覚ました。それはいい匂いだ、と感じるよりも先にこの匂いで酔いそうだ、と思ったほど、きつく、強く香っている。
 花の匂いは別に嫌いじゃない。ただそれは、かすかに鼻腔をくすぐる程度であれば、の話で。今みたいに、濃い匂いが充満しているとさすがに、気分が悪くなりそうだ。
 うつろな目で部屋を見回してみると、昨日までは何も無かったはずの部屋のいたるところに、薔薇が飾ってあった。そのどれもが赤く、自分が一番だとでも言わんばかりに、競うように似たようなきつい香を漂わせている。
 どう考えても、セバスチャンを始めこの屋敷のメイド達がこんな悪趣味をするとは思えない。今日、何か記念日でもあっただろうか、と考えるが何も思い浮かばず、疑問符を浮かべながら部屋を出た。

「おはようございます、ゼロス様」
 なにも変わっているところなどない、とでも言わんばかりに変わらない挨拶をするセバスチャン。大量の赤い薔薇は、俺の部屋だけではおさまりきらなかったらしく、廊下にも、階下の応接間にも、溢れんばかりに飾られている。色とりどり、であればまだ少し救われる気もするが、あいにく、薔薇は全て、真っ赤で。
 異様な光景を見ている気がするのは、本当に俺だけのようで、誰も気に止める様子はない。
 なぜ、こんな異常な空間の中で、平然としていられるのだろうか。
「……なあ、この大量の薔薇は、一体何なんだ?」
 疑問を受けてようやく、それに気付いたかのように、セバスチャンはああ、と一つ声を漏らすと。
「今日はゼロス様のお誕生日でございますから、そのお祝いにと、沢山の方からいただいたのですよ」
 あくまで淡々と語る。ちなみに、薔薇と共に送られたメッセージカードは机の上に並べてあります、と付け加えながら。
 自分の誕生日なんて、すっかり忘れていた。しかし去年まで、こんな有様を見たことがない。何故、今年に限って、こんな目にあわなければならないのか。
 女達は、誕生日や記念日といった出来事が好きらしく、聞かれる度にうんざりとしつつも正直に答えていた。その代償がこれなら、多少日にちを誤魔化しておけばよかった。そんな考えがよぎる。しかしせっかくの好意を無駄にするわけにもいかない。おもむろに一番手前にあったメッセージカードを手に取る。
『ゼロス様に一番似合う花を、カードと共に贈ります』
『赤い薔薇を見るたび、ゼロス様を思い出します』
 どれもこれも、似通った文面ばかり。
 赤い薔薇。花言葉は、『情熱』。俺の性格とは正反対の、言葉。
 何故、自分にそんな赤い薔薇のイメージがついているのか。全くもって、わからない。
「……赤い薔薇ばかり届いた理由、分かるか?」
「おそらくゼロス様が、女性の方への贈り物に赤い薔薇をお選びになっているからだと思います」
 あっさりとセバスチャンが答える。言われてみれば、そうだったかもしれない。だがこの惨状は、あんまりだろう。
 赤。それは俺がこの世で嫌いなもののうちのひとつ。
 それがここまで、見渡す限り広がっているのを見ると、吐き気がしそうだ。
 なんて酷い日なんだろう。頭を抱えたまま、食堂へと向かう。その廊下もやはり、赤で敷き詰められていて。
 俺に言えた義理はないだろうが、どうしてこうも、貴族という奴らは金の使い方がおかしいのだろう。すでに誕生日などに何の意味も感じていない俺には、それにこだわる女たちの気も知れない。
「……ん?」
 真っ赤な地獄を通り過ぎようとしたとき、ふと、簡素な一輪挿しが目に留まった。
 つられて足も止まる。
「ゼロス様? どうかなさいましたか?」
「なあセバスチャン、あれも、贈り物、か?」
 目線の先にあるのは、小ぶりな花弁を四つほど茎の先につけ、特にこれといった主張はしていないものの、赤の中では異彩を放つ、真白い花。
「ええ、あちらは……セレス様からの贈り物で、ございます」
 セレスから。
 その思いもよらない一言で、瞠目する。
 俺の誕生日を覚えていたのかとかなぜこんなに地味な花なのかとかよりも先に。
 セレスは俺のことを、嫌っていたのではなかったのか、ということがまず、思い浮かんだ。
 セレス。今ではたった一人となってしまった俺の肉親の、修道院で軟禁状態にある、妹。
 会いに行くたびにどこか不服そうな顔をしては、俺に冷たい言葉を投げかけ、何が本音なのか分からない態度ばかりを取る。
 ……ずっと、嫌われているものかとばかり思っていた。俺がいたせいで、母親は処刑され、自身は軟禁生活を強いられて。
 嫌われる理由のひとつには、俺が、セレスと正面から向き合うのを避けていたから、というのもあるかもしれないが。
「……セバスチャン、セレスからは、あの花一輪、のみ、か?」
「ええ、こちらのみです。どこに飾ろうかと迷いましたが、こちらに飾らせていただきました」
 小さく、健気に、ひっそりと存在しているように感じる花は、まるでセレス自身を表しているよう。
 それとともに、こうして一輪、大量の赤い薔薇の中でひっそりと存在する姿が、まるで俺自身でもあるように感じた。
 繁栄世界の、テセアラの神子としてそれなりの地位と名声を持ちながら、しかし教皇に疎まれ母には暴言を吐かれ、他の貴族のお嬢様方とは上辺だけで付き合おうと試みる、一人だけ異質な、俺自身に。
「お気に召さないようであれば、片付けますが」
「いや、いい。あの花はそこに飾っておいてくれ。他の花は捨ててしまってもかまわない」
「わかりました」
 返事をするとセバスチャンはメイドたちの元へと向かった。俺はそのまま、この白い花の前で。
 セレスは何を思って、この花を俺に贈ったんだろう。何の意味を込めて、この花を。
 俺が考えたところで、分からない。けれど分かったことは、少なくとも俺のことを本心から嫌っているわけではないこと。それだけで少し、赦された気がした。俺が生まれてきたことも。
 ……そうだ、いい事を思いついた。
 今年はこの小さな花のお礼に、俺もセレスの誕生日にいつもとは違うプレゼントをしよう。
 それこそセレスが嫌がるくらいに、真っ赤な薔薇を、あの小さな部屋いっぱいが埋まるくらいたくさん。
 それが届いたときのセレスの顔を想像して、ふと、笑みがこぼれた。